For No One

パリ、東京、ニューヨークでの思い出話や日々思うことをつらつらと書いていきます。

妊娠に至るまで③ 〜親に報告〜

予定通り9月に10日間、夫と2人でフランス(ディジョン)で過ごした。

治療が始まったらお酒が飲めなくなる(かもしれない)ので、悔いのないようこれ以上飲めないだろ、というほどワインを飲みまくって、美味しいものを食べまくった。母は一滴も飲めないので飲むのは父と夫と私の3人だけど、家呑みだけで8日間で13本空けた。食事の半分くらいは外食で、毎回平均3人で2本空けていたので、もうどれだけ飲んだか考えたくもない。

アルザス地方へも泊まりがけで旅行して、天気にも恵まれ充実した里帰りだった。

とりあえずは母と2人きりのときを狙って、治療の話をしたら、母の口から腰が砕けるような情報が。

「いいんじゃない?日本はお金がかかるだろうけど…こっちは保険でカバーされるからね」

 

な・な・なんだと!!!!!

 

「だからこっちへ駐在で来る日本人の奥さんとか、ほとんどみんな治療して子供作ってるわよ」

 

日本でも条件をクリアすれば30万円ほど戻ってくるけど、最低限かかる金額の半分以下でしかない。少子化が聞いて呆れるわ…。

 

そして、母はこう続けた。

「お父さんがね、いつか機会があったら伝えとけって言ってたことがあって。あなたたちは結婚もそんなに早くなかったし、子供が居なくても幸せな夫婦生活を送れるんだから、もし授からなくてもそのことを気に病む必要は全く無いって。でもまあ、治療する気になったのであれば、やれることはやるといいと思うよ」

なぜ私の親に報告しておきたかったかと言うと、以前父からいただいたおこづかいを治療費に当てるつもりだったからだ。

良い親の元に生まれて、私は幸せ者だ。ありがとう。治療頑張るよ。

 

そして父にも報告し、清々しい気持ちで夫と日本へ戻った。

いざ、クリニックへ。

A suivre.

 

妊娠に至るまで② 〜情報収集〜

不妊治療経験者の友人は、何年間も治療をしたのに結局実らなかったにも関わらず、快く自分の経験を包み隠さず話してくれた。

治療の手順。通う頻度。料金システム。治療中の心の動き。

私には想像もつかないような辛い思いをして、目の玉が飛び出るような高額を投資して、それでも授からずに治療を続けている人たちと同じ場所に通うこと。

仕事を辞めてしまうと治療のことばかり考えてしまうから、妊娠するまでは仕事は続けたほうがいいこと。

毎回凹んでいたらキリがないから、ある程度距離感を持って治療に挑むこと。授からなかったときの心の切り替え方を考えておくこと。

待ち時間が長いので、覚悟しておくこと。

その友人は体の限界がきたので治療はやめ、養子縁組に切り替え、数年間の手続きを経てもうすぐ赤ちゃんが家に来ることになっている。本当によかった。

 

彼女が通っていたクリニックが、強い薬で無理矢理卵を増やしたりしないし、あまり大きくないので「工場」感が無く対応が良さそうだったので、そこに決めた。やっぱり知っている人が経験している場所のほうが、こういう場合は特に心強い。

初診だけはネット予約制ということで、行けたらすぐに行こうと思っていたのに、予約が取れたのは2ヶ月後。話は聞いていたけど、やっぱり需要が高い治療なのね。(供給が少ないという言い方もある)

たまたま自分の39歳の誕生日に初診の予約ができたので、これも何かの縁だと思った。その前に結婚以来初めて夫と2人でフランスに住む両親に会いに行く予定だったので、その時に自分の親には治療のことを話しておこうと思った。

A suivre.

妊娠に至るまで ① 〜焦り〜

みなさんブログ書くときって構成を事前に考えてから書いていますか?私は行き当たりばったりなので、①と書きつつ何番まで続くか見当もつきませ〜ん。

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夫との出会いの話はまた別の機会にするかもしれないけど、出会ったとき私は35、夫は38。3月に出会い、5月に付き合い始め、9月に同棲を始め、12月にプロポーズされ、翌年の2月に入籍したのでそんなに時間を無駄にしていないけれど、入籍1年目で挙式をしたときは私は36で夫は39だった。

子供は授かれば欲しいと思っていたけど(多分夫の方が欲しい気持ちは強かったと思う)、出会ったのも遅かったし、2人ともワイン好き・喫煙者・美味しいもの好きなので、しばらくは2人の生活を楽しみたかったので、積極的に子作りに励んではいなかった(つまり基礎体温を測ったりタイミングをとったりはしていなかったということ)。何よりも自分の結婚式のときに妊娠してワインが飲めない、なんて事態は絶対に避けたかった。

挙式後結構すぐに、「そろそろ子供を作りましょう」「でもお互いあまりプレッシャーをかけずにやりましょう」ということになり、授かれば嬉しい、程度の子作りモードに入ったものの、2年間一向に授からないままだった。

これはさすがにマズイと思い、フルタイムでバリバリやっていた仕事を派遣に切り替え、きちんと基礎体温を測って生活してみたものの、状況は変わらず。

お互い心のどこかで「きっとすぐにできるはず」と思っていたので、ショックだった反面、お互いお酒飲むしタバコも吸うしやめるつもりないし…。そして何よりも、年齢。私が知っている人の中で一番遅い初産は43歳だけど、その人は旦那さんが年下だ。うちは夫が年上だ。関係あるかどうか知らんが、とりあえず40歳になる前に、できれば産みたい。

そこで当然ながら脳裏をよぎったのが、不妊治療。

どちらかに問題があるかもしれないので、それだけでも知りたいと思った。東京都内のクリニックはそんなに数があるわけではないけど、ネットの口コミを読んでもピンと来ないし、なんだかどれを読んでも辛そうで決められなかったので、前の職場で治療を何年間も続けた経験がある知り合いに声をかけて、去年の8月に相談に乗ってもらった。

 

A suivre (続く)。

あわわ

またやってしまった。何ヶ月更新してないんだーぁ。

今までも繰り返した失敗、「自分で決めたブログの枠組みが窮屈になる」症候群。

そう、思い出話じゃなくて日々のどうでもいいことを書きたくなることもある。でもまだ回想は中学時代で止まってるしな…ま、別に今日思ったことは書かなくていいか、かと言って回想のネタは中・高すっ飛ばして大学時代のことしか思いつかないし、じゃあ今日はいっか〜

なーんて言ってたら半年以上経ってるよ。もうあきらめて近況を書きます。フランスの話を期待して来ている方々、申し訳ございませんがフランスネタはたまにしか出てこなくなるかと思われます。

中学からかいつまんで経過を説明すると、高校・大学とパリで過ごし、日本へ戻りたいがために「日仏経営学院」というもの好き向けの大学院(レンヌ第一大学付属)に入り、めでたく東京で就職しそのまま引越し、せっかく念願の東京で勤めたのに5年後には赴任でニューヨークへ渡り、2年の予定が4年間過ごし、男に捨てられ日本へ帰国し、転職して運命的な出会いを経て今の夫と結婚し、現在日本在住6年目。

もっとかいつまむと、私は生まれてから千葉→パリ→レンヌ→東京→ニューヨーク→東京と移動してきて、今後はそんなに移動する予定はない。

もう、移動は疲れた。仕事の出張であろうが住む場所であろうが旅行でさえも、移動に時間をかけるくらいだったら箱根でゆっくりすれば十分幸せだと思ってしまう。

一人のときは、寂しさや興味や退屈や自己満足や世間体など、色々なものを満たすためにとにかく毎日新しいところへ行って新しい人と会って新しいことをして新しいものを食べて、SNSで拡散して、ということに命をかけてたような気がする。

でも、今は家で夫と一緒に何もしないことが一番のゼイタクになった。

ハタから見ればつまんないだろうけど、それもどうでもよくなった。

 

そして何よりも価値観が180度変わる出来事が。

妊娠したのだ。

というわけで、しばらくそれにまつわる話をしようと思います。A suivre(続く)。

コンプレックス

このバイオリズムの低下は、気候のせいなのかトシのせいなのか考えてしまう今日この頃です。

てことで、中学話の続き。

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Dupanloup中学校は、私立ということもあり、そして高級住宅街だったこともあり、本当に良いところのお坊ちゃん、お嬢ちゃんが多かった。

名前に「De」とか「Du」とかがつくと元貴族(という可能性が高い)ということだけど、そんなのゴロゴロいた。意味としては、英語の「of」なので、「xx家の」みたいな意味になるのかな。

その中でも忘れられない苗字があるんだけど、ググったらご活躍されている方だったので説明だけにしておきます。

そのDuとかDeが一つついてるだけでもハクがつくのに、二つついている子がいたのだ。

なんとなく英訳すると、「(名前)of the wood of xxx」ということになる。「xxxの森の(名前)」ということで、まるで「眠れる森の美女」じゃないか!!と、当時衝撃を受けたのを覚えている。

当然みんなお金持ちだったので、12、3歳で持っているものは本物だった。Timberland, Clarksの靴や、当時流行っていたAGATHAのジュエリーは当たり前。あ、シマロンのデニムと、シャプリエのバッグも。ヴィトンのバッグやモンブランの万年筆を持ってる子も居た。(前に書いたけど、当時のフランスの学校では万年筆でノートを取っていた。今はフリクションが大流行りらしいけど)

私はAGATHAのクマや犬のペンダントヘッドはギリギリ買ってもらえたけど、靴は無理なのでフェイクを履いていた。でも、今考えてみるとあの年齢で「本物」を間近で見ていたという経験は、後々そんなに欲しくならなかったという点では良かったのかもしれない。(中学でみんな使ってたしな・・・と思うと、それにお金を使う気にならないんだよね)

って、物理的な話になってしまったけど、今回のポイントはそこではない。コンプレックスの話だ。

私の持論は、欧米人の「美しい時期」は10代前半であるということ。そのあと低迷期に入り、再び輝くのは30手前くらいからだと経験上思っている。

日本人は、ハタチを過ぎてから「美しい時期」が来ると思う。

何が言いたいかというと、中学の同級生が「べらぼうに美しかった」時期、私は「人生最高にブチャイク」だったと思うのだ。

ニキビができ始めた肌、むくんだ顔、太い足、手足に生える黒い毛(同級生はブロンドが多かったし、黒髪でも手足の毛は産毛のように細くて目立たなかった)。それに輪をかけるように、私は11歳で歯を矯正していたので、口を開けると銀色のブリッジが光り輝いた。ほんとに笑っちゃうくらい、絵に描いたようなブチャイクちゃんだった。

それにひきかえ同級生のキラキラしていたこと!

透き通るように白い肌、無造作にまとめた髪、細く長い首、スカートから伸びるすらりとした足。そして香水の良い香りがしたし、メイクもしていたのでフェイスパウダーのアダルトな香りなんかもした。

そんな早熟なもんだから、もちろん彼氏ができたり、ちょっと太っちゃったからダイエットしてるのぉ、脂肪分ゼロのヨーグルト超おいしー!なんて言ったりしていた。

そういったキラキラ族は別に私のようなブチャイクちゃんを仲間外れにすることはなく、私は校庭でそのようなキラキラ話を眩しい目で(そして他人事のように)聞いていた。

でも、どこにでも「流れに乗れない族」は居るもので、私は「モテない族」男子3人と一番仲良くしていて、家に遊びに行ったりボーリングへ行ったりしていた。今考えるとなんで私があそこに居たのかよくわからないが、それはそれで楽しかったし、まだ連絡を取り合っている子も2人居る。

 

キラキラ族の中でひときわ目立っていたのが、セシルとキャロリーヌという女子二人だった。容姿もお家柄もピカイチで、男子も全員ひれ伏し、怖いものなし。先生たちも彼女たちが騒いでいても比較的注意しなかった。(寄付金とかあったのかな)

私が大学に進学したとき、通学中にそのセシルと一度会ったことがある。

当時は卵のようだった肌はニキビだらけで、服装は穴だらけの汚いグランジ系。それに見合ったかなりどうしようもなさそうな男と電車の中でイッチャイチャしていた。

私に気づいたセシルは近づいてきて気さくに挨拶してくれ、そのあとまたチャラ男とイッチャイチャしに戻った。

なんだか夢が壊れたような気がしたけど、お嬢様もお嬢様なりに反抗しているんだなあ、と思ったのでした。

で、ちなみに自分が「ブッチャイクな時期」から脱却できたのは、23、4のときくらいだったかなあと自覚しております。

翻訳コンニャク

結婚したがってる30代以降の女性で、「誰でもいいです!」と言う人に限って、絶対誰でもよくないよね。

というわけで、今回は最近思い出したエピソード。

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おそらく私が7、8歳で、もうフランス語がペラペラになっていたときのこと。

当時母と、毎週のように映画を観に行っていた。

母は毎週、キオスクでフランスの「ぴあ」のような小冊子を買って、映画館と時間を確認していた。Cinéscopeだったかな?

いつものようにキオスクで、母がその小冊子をくださいと告げると、店員のおじさんが「Trois francs, Madame (3フランです、奥様)」と言った。

フランスに来て1〜2年経ち、もともと英語のほうが得意だった母は、だんだん頭に入ってくるフランス語に戸惑って最も混乱していた時期だったんだと思う。

母は、「はい、3フランね」と独り言のように言いながら、お財布から小銭を探し始めた。

「さんふらん」という言葉を聞いたおじさんは、「Non Madame, pas cinq francs, c'est trois francs!」と訂正した。

フランス語で数字の5は、「さん(く)」と言う。

最後の「く」は、わずかに発音するだけなので、「さんふらん」が「5フラン」に聞こえたので、訂正してくれていたのだ。

でも、母の脳内は混乱しているもんだから、なぜ訂正されているのかがさっぱりわからず、「だから3フランでしょ?」と、日本語で話し続けたのだ。

そのあと「Mais non, trois francs!(違うよ、だから3フランだってば)」「いやだから3フランって言ってるでしょっ!」という不毛な会話が続いたが、私はなぜそんなことになっているのかが全く理解できず。

母の手をひっぱって不思議そうに「お母さん、それ日本語だよ?」と言ったとき、母は初めて状況を把握しハッとした。

 

今ならわかる。

母は相当いっぱいいっぱいだったんだと。

でも、当時は母の頭がおかしくなってしまったんじゃないか・・・と、しばらく心配だった。

 

別の日にも、「E.T.」を観に行って、タイトルをフランス語読みで「ウーテー」と行ったら販売員に苦笑され、「ああ、イーティーね」と返されて憤慨していたこともあった。

そうだよね、リチャード・ギアは「りしゃーじー」って読むもんね。納得いかないよね〜。

 

そんな母は、今でも父とたくましくフランスに住んでいます。

夏のはじまり

ブログの改行って難しいなあ。と思う今日この頃。日々勉強です。

 

日本ではゴールデンウィークが終わり、これからジメジメ梅雨に突入するけど、フランスに居た頃は「テニスのフランスオープン(Roland Garros)」と「カンヌ映画祭」に夏の始まりを感じていた。

最近は錦織さんの活躍のおかげでフランスオープンの話は耳にするようになったけど、当時は通っていた中学が会場の隣だったので、もろに実感できた。

日本でも日が長くなったなぁ、と思うようになったけど、フランスはそれどころではない。夏はヘタしたら夜は10時くらいまで明るくなるのだ。

それに拍車をかけるのが、夏時間。Daylight saving timeとはよく言ったもので、ただでさえ日が長くなるのに時間を一時間進めるものだから、体感的に日照時間が一時間長くなる。

おかげで小さい頃、7月14日の革命記念日エッフェル塔に打ち上がる花火を観たことがない。もう寝てる時間に始まるんだもの。

ブラインドをぴっちり閉めても漏れてくる日中のような光を見て、少し悔しい思いをしながら寝ていたのがまだ記憶に残ってる。明るいうちに寝るのは、何か損した気分だった。

一年で一番日が長い夏至、6月21日は、フランスではFête de la Musique=音楽の日。その日は町中にバンドやコーラス隊が繰り出し、そこら中が歩行者天国になってみんな思い思いに音楽を奏でる。街中がお祭り騒ぎになるその日を毎年楽しみにしていて、学生時代はセーヌ川沿いのSt Germain Des Presに繰り出した。

その一環で初めて聞いたゴスペルで、クワイアの人が次々とトランス状態になって髪の毛を振り乱して叫びまくるのを見てドン引きしたけど、まさかその十数年後自分が歌うことになるとは。

 

その反面、冬はその分日照時間が異様に短くなる。朝は10時くらいまで明るくならないし、5時には日が落ちている。だから登校するときも、帰宅するときも暗い日々が数ヶ月間続く。そして冬時間なので余計暗くなるのが早くなる。

昔聞いた話だと、冬は自殺件数が増えるとか。日本の冬と違って太陽が出る日がとても少なく、全体的にグレーな印象なので、無理はないと思った記憶がある。

でも私は、それはそれで好きだった。

キンと冷えた朝、白い息を吐きながら暗い街中を歩いて学校へ行くのが、なぜか少し悪いことをしている気になってワクワクした。帰宅するときも同じだ。パリの街並みは、誰がなんといっても絶対的に曇りが似合う。グレーが似合う街だ。

当時は幼かったからワクワクしてたけど、雨が降るだけで会社を休みたくなるほどブルーになるカメハメハ大王になってしまった今は、フランスの冬は越せないかもしれない。

 

なにはともあれ、もうすぐ夏。