For No One

パリ、東京、ニューヨークでの思い出話や日々思うことをつらつらと書いていきます。

クルエラおばさん

最初の5年間を過ごしたパリ17区のマンションは、築100年以上の建物だった。
入口の扉が重厚で、子供の私は全体重をかけて体当たりしないと開かなかった。
 
住み込みの管理人ドロガさんは、「タンタン」に出てくるスノーウィ(フランスではMilou ミルー)を飼っていた。名前もそのまんまミルーだった。
 
入口のドアを通ると小さな中庭があり、その奥には謎の塔が建っていた。
(ごみ捨て場になっていたような記憶があったりなかったり)
 
古い建物のらせん階段の真ん中に無理やり設置されたエレベーターは、冗談みたいに狭かった。
太ってる人とか入れなかったんじゃ・・・と思うくらい。
そして、木造だった。
そして、遅かった。
引っ越しとか、どうやったんだろう。
 
中庭に面する1階には、ヴィオラ演奏者のご主人と、学校の先生の奥さんが住んでいた。
すっと抜けて聴こえる音色が、きれいだった。
 
ちなみにフランスの1階は、日本では2階。
日本の1階は、RdC (Rez-de-chaussee)と呼ぶ。英語で言うGround floorです。
なので、ミュージシャン夫婦が住んでいたのは、RdC
 
私たちは5階(くどいけど、日本で言うと6階)に住んでいた。
お隣には、定年後のディメール夫妻が住んでいた。
ご主人は、元検事のダンディーな、ゴッドファーザーに出てきそうなおじいさん。
それこそエレベーターに入らないんじゃないかというサイズ感だった。
 
奥さんは、まさに「101匹わんちゃんに出てくるクルエラだった。
イメージ的にはビロードのガウンを着て、その下にはシルクのワンピース、
ショートでクリクリの赤毛に、緑・紫系のばっちりメイク。唇はショッキングピンク。
かなり濃密なムスク系の香水。日焼けしすぎて、胸元はしわっしわ。
想像つきました?フランスにはよくいるのよこういうおばさん。
 
私は最初かなりクルエラにおびえてたらしい。
子供にはいささかインパクトフルだし、無理もない。
本能的に「皮を剥がれて毛皮にされる」と思っていたんだろう。
 
ところがある日、何らかの理由で私が家から閉め出されてしまい、
(留守番中に私が家から出てドアが閉まってしまったとかで)
背に腹はかえられない、と腹をくくった私はクルエラの助けを求めた。
母がしばらくして帰宅するまで、彼女の家で過ごした。
具体的には覚えていないけど、とにかく満面の笑顔で、嬉しそうにお世話をしてくれた。
 
母が帰ってきたとき、クルエラは感動冷めやらぬ勢いでいきさつを説明したらしい。
「私に助けを求めてきたのよ、なんてかわいい娘なの!!!!!」
 
それ以来、ディメールおばさんと私は大の仲良しになった。

フランス最初の思い出

フランスへ行く前の記憶は、あんまりない。
フランス行きの飛行機では、経由地だったアンカレッジで外人のお姉ちゃんたちが雪合戦をしてくれたことはなぜか鮮明に覚えてる(ってことは、外に出られたってことか)。

パリについてから数ヶ月間は、16区のPassyでホテル住まいだった。
その頃の記憶もあまりないけど、大きな窓から吹き込んでくる風で揺れる白くて薄いカーテンと、
粉砂糖が無いからヨーグルトに角砂糖を入れて、溶けるまで待ってから食べていたのは覚えてる。
そのヨーグルトが、すごく酸っぱかったことも。

 

最初に住んだのは17区のPorte Maillot、凱旋門の裏だった。
家を出て少し歩くとに大きな彫刻が中央にある広場があって、
そこにパン屋、チーズ屋、カフェなどあり、
その先の道をまっすぐ行くと小学校。
そこをさらにまっすぐ行くと教会があり、そして大通りAvenue des Ternesに出る。
今でも落ち着いていて上品な界隈だ。
(家の向かいはなぜか高級連れ込み宿だったが)

 

家のそばに、ディズニーの映画しか上映しない映画館があった。
毎週水曜日になると、母と二人でそこへ映画を観に行った。
バンビ、シンデレラ、白雪姫、ファンタジア、わんわん物語
今のよりも、当時のディズニー映画のほうが夢があったと思う。
 
父も慣れない場所での仕事は大変だったと思うが、
職場では他にも日本人駐在員や、日本人のローカルスタッフもいた。
 
言葉もほとんどできない状態で、6歳の私の世話をしながら主婦業に慣れなきゃいけない母は、相当大変だったろうと思う。
 
母は、フランスへ行く前は英語の教師などもしていたので、
1年目はとりあえず全て英語で通したらしい。
2年目からは、フランス語が少しずつ入ってくるにつれ英語をその分忘れ、
その結果しばらくどっちもできなかったらしい。
そして、3年目くらいでフランス語のほうが楽になったらしい。
 
今の母は、それはもうおもしろいくらい英語ができなくなった。
数年前私が里帰り中に、フランスのスーパーでアメリカ人観光客らしきマンマが話しかけてきたとき、
(アジア人だから英語ができると思ったんだろう)
母は何も答えられず、本当に「アワアワ」と言っていた。
 
人間焦ると本当に「アワアワ」と言うのだな、と思った。

勉強なんて

6歳のときに、父の仕事の都合でフランスはパリへ引っ越した。
そして、アジア人が一人も居ない公立の現地校に放り込まれた。
あまり疑問に思ったことがなかったけど、夫に「なんで日本人学校に入れなかったんだろうね」と言われて、ハッとした。
自分たちも仏語がままならないのに、確かに親は相当大胆な行動を取った。
次回会ったら、一体何を考えてたのか是非聞いてみようと思う。

現地校での話はまた後日するとして、とにかく当初は父の任期が5年だったので、私が小5くらいになったら日本へ戻る予定だった。

なので、日本へ戻ったときに授業についていけないと困るから、ということで、
小学校3年生から日本人学校へ通い始めた。

ところが5年経ったら日本へ戻らないと言い出し、
公務員だった父がまさかの40歳で自動車業界へ転職。

それならば、ということで、小6の一学期でまた現地の中学校に転校。
結局私は入学式も卒業式も経験しないまま高校、大学、大学院とフランスの教育システムの中で過ごし、色々はしょって現在に至る。

ちょうど環境や授業に慣れてきたころに「ごろり」と文化も言葉も違う場所へ3度ほど移動したので、勉強ははっきり言ってできなかった。どちらもブランクが長すぎて、ついて行けなかった。

小3で日本人学校に入ったとき、もちろん漢字なんて読み書きできるわけもなく、
テストは毎回0点。ニュース的に言えば「ズィーロー♪」だ。

それを私が気にして心を病んでしまうのを恐れた母は、
「ずっとフランスの学校へ行ってたんだから、0点で当たり前なのよ。
気にしないでいいのよ!」と、切実に私に言い聞かせたらしい。

それを素直に聞いた私は、毎日帰宅すると
「ただいま〜!今日もれいてんだったよ!」
と、無邪気にテスト用紙を片手に報告すること数ヶ月。

さすがに危機感を覚えた母は、「点数を取ればおこずかいアップ」制度を導入したところ、
瞬く間に国語が5になったというしっかり者の私。

もともとは、現金文系なんだと思う。

だけどまた中学で現地校へ戻ったとき、仏語の文学なんてついていけるわけもなく、算数の教育は日本のほうがずっと進んでいたので、そのまま成り行きで理系に進んだ。

高校では、間違って一番成績の良いクラスに入ってしまい、
高3のときには先生全員に「こいつは絶対留年する」と言われるほどビリから2番目だった。

でも結局、授業では受験(※厳密に言うとフランスでは受験ではなく、高校卒業試験)勉強のかなり先を行くエンジニア系のことを教えていたので、途中から私は学校へ行かずにビリの子と二人で家で受験勉強をするようになった。

ら、余裕で受かったもんね、ざまーみろー!

色々環境のせいにしようと思えばできるけど、
つまるところは私は勉強があまりできないんだと思う。

だけど、勉強するのは全く嫌じゃなかった。
親に「勉強しろ」と言われたことは一度もないし、
受験勉強のときは母に
「あなたそろそろ勉強やめたら?」
と言われるほど根詰めてやってた。(←負けず嫌いのパワー)

こんな私でも、ちゃんと就職してきちんとバリバリ仕事して、
もしかしたら高校時代めちゃくちゃ頭が良かったクラスメートよりもキャリア的には成功したのかもしれない、と思うと、
学校の授業の内容自体はあまり意味なかったな、と思う。

これからしばらく生い立ちのエピソードを書き散らかします。

x度目の正直

ブログ欲。

何年かに一度、その波は訪れる。

その度に何か立ち上げては、早くて3日、遅くて数週間で面倒になって放置。

でも、またその波がやってきてしまった。

また新しく立ち上げて放ったらかしてしまうのもアレなんで、既存のアカウントを使えないかしらんと過去の手帳などを引っ張ってパラパラしてみたら、パスワードなどの詳細を書き残していたアカウントが一つだけあった。

で、実はそこで再開してみたのです。

ところが、当時はスマホが普及され始めた頃。
ブログを携帯電話で閲覧する、なんて習慣はなかったので、
れすぽんしぶ機能 とか、あまり関係なかった。
PC画面では美しくても、スマホで見るときに使い勝手が悪い。
カスタマイズとかできるみたいだけど、そんな技術ありゃしない。

というわけで色々検証した結果、ここで新たにアカウントを作った。

今回は、どれくらい続くかな〜。どきどき。

とりあえず向こうのアカウントで公開してた記事をコピペします。