For No One

パリ、東京、ニューヨークでの思い出話や日々思うことをつらつらと書いていきます。

宿題と通信教育と転校

フランスの小学校は、水曜日は休みだけど、
1年生から朝の8時半から夕方の4時半までフルで授業があったりする。
 
教科書もハードカバーでサイズも大きく(A4以上あったと思う)、めちゃくちゃ重い。
ノートも、リングノートで300ページのもの、と指定があったりする。
 
なので、当然ランドセル(Cartableといいます)も日本の倍くらいの幅で(横長)、
ハンパない重量。
背が低い私は多少フラつきながらそれを背負って歩いていたらしい
 
宿題の量も、ハンパなかった。
母もフランス語がそこまでできなかったので、いつも二人で必死になってやっていた。
 
それとは別に、日本の教育も通信教育で受けていた。
その量も、結構あった。
 
次第に母も私も、両方の勉強についていけなくなった。
 
だったらそろそろ日本へ帰る(予定だった)し、母国語を大切にしましょうということで、
私はようやく慣れてきていたSt Ferdinand小学校から転校することになった。
 
17区の地元から、エッフェル塔のふもとへ、
小3で移動。

ヴァネッサの飛び級とイアンの留年

フランスでは、義務教育であろうがなかろうが飛び級・落第・留年は珍しくない。
大学に入った時点で、一度も留年していない人は半分くらいしかいなかった気がする。
 
実際私も、日本人学校から現地の中学校へ転入した際、
本来は中学2年生に入るべきところを中学1年生にしたので、通常よりも一年遅れたかたちになる。
でも、クラスには常に同い年の子がたくさんいた。
大学院でも、一人40歳の男性がいたなあ。
 
たまに、ものすごく成熟した子供がいた。
小学校2年生くらいのとき、ヴァネッサというクラスメートが居て、
その頃の記憶では7歳にして中学3年生くらいの身長と体型だったような気がする。
 
彼女は、クラスで明らかに浮いていた。
友達とも釣り合わないし、精神的にも大人で落ち着いていた。
 
案の定、その子は2年くらい飛び級をした。
2~3歳年上の子たちと一緒に居るほうが、ずっと自然で幸せそうだった。
 
もちろん体型や精神年齢とは関係なく、単にお勉強ができないから留年するケースのほうが多い。
 
同じく2年生くらいのとき、イアンという男の子が私にまとわりついていた。
なんか知らないけど、私のことが大好きで、
その愛をいつも私はもちろん、母にも打ち明けていたらしい。
 
イアンは私よりも上の学年で、翌年から中学生のはずだったのだが、おバカちゃんだったので留年した。
 
落ち込むどころかイアンは母に嬉々としてこう報告した。
 
「マダム、僕留年したんだ!
これでもう一年マダムの娘と過ごせるなんて、夢みたいだ」
 
・・・何年か前に興味本位でFBで検索してみたら、今では2子の親で幸せそうだった。
本当によかったです。

遠足

フランスの小学校は、日本のように運動会、学芸会などの行事は無いけど、
(ついでに入学式・卒業式・始業式・終業式などの儀式も一切無い。)
年に一回仮装して街中を練り歩いたり(ハローウィーンとは無関係)、
遠足はたまにあった。
 
そのひとつに、母が引率でついてきたことがある。
パリから車で1時間半ほどのリゾート海岸、Deauvilleへ行ったときだ。
 
これはあとから母に聞いたことだけど、
その遠足にはもちろん先生たちも一緒に来る。
全員女性だ。
 
ビーチに着き、子供たちは水着になってはしゃいで遊ぶ。
 
引率なので、母は服を着たままでビーチに座り、子供たちを監視していた。
 
そうすると、おもむろに先生たちが服を脱ぎ出した。
 
下に水着を着てるのかな?と思いきや、
先生たちはなんの躊躇もなくエイやっとTシャツを脱ぎ、
堂々とトップレスでビーチに横たわったらしい。
 
トップレスは、今でも結構普通かも。
でも、当時まだ免疫のない母には相当なカルチャーショックだったのでした♪

 

セシルと野菜と大人と子供

クラスの人気者になった私は、セシルという親友ができて、
お互いの家を行き来するようになった。
 
クラスに必ず一人は居る、面倒見のいい子。
ブロンドで目が青くて、かわいくて大好きだった。
 
その子の家に泊まりに行くと、食事は親と別々だった。
 
子供たちは早い時間にキッチンのテーブルで食事を済ませ、
大人たちはもっと遅い時間に、ゆっくりとワインを飲みながら食事を楽しむ。
 
フランスでは、多分それが一般的だと思う。
悪いこととは思わない。
騒ぐ子供に翻弄されながらせわしなく食事をするよりも、ずっといい。
 
が、問題なのは子供の食事の内容だ。
ゆで卵一個と、マッシュポテト。
それにフランスパンが一切れ。
 
自宅では大体和食で、品数も多かった私は、それを母親に伝えたらえらく驚いていた。
 
セシルがうちに遊びに来たときに、母が彼女に
「セシルが知ってる野菜を教えて?」と行ったら、
彼女は「お米」と真っ先に答えたという。
 
あとは?と聞くと、ちょっと考えてから
「ポテト」と言ったそうだ。
 
それ以外は、知らなかったらしい。
 
うちで出す食事は、彼女も喜んで食べていた。
 
美食家のイメージがあるフランスだけど、
日常、特に子供は粗食でした。少なくとも当時は。
日本人の子供は、小さいときから色んなものを食べられて幸せだと思う。
 
 
 
そして、「子供」と「大人」の線引きがしっかりしている。
大人が会話を楽しんでいるときに、子供が邪魔すると徹底的に怒られる。
大人が子供を尊重するように、子供も大人を尊重するよう教育される。
 
子供がレストランや電車の中など、公共の場で奇声を発して暴れまわるシーンは、フランスではまず見ない。
子供には、とっても愛情を注ぐけど、その分厳しい。
「子供は禁止だけど犬はOK」なんてレストランも、当時は結構あった。
そもそも、レストランへ行くとき、大人は子供をベビーシッターに預けるのが一般的だ。
 
日本は、「子供天国」だと、つくづく思う。
なぜそんなに子供に好き勝手をさせるのか、理解に苦しむ。
 
一緒に遊んで甘やかすときは思いっきりやって、
我慢したり、おとなしくするべきときはきちんと理解してもらったうえで、徹底する。
フランス人の親は、そんなイメージだ。
 
だから最近の日本の大人は子供っぽくて、フランスの大人はきちんとした大人になれているんじゃないかな~
と、漠然と思います。

ニコル先生

最初の何年間か、ニコルという家庭教師に来てもらっていた。
白髪まじりのボブが似合う、鼻の高いスイス人の女性だった。
 
とてもおだやかで優しい人だった。
私は友達だと思っていた。
 
私が学校でみんなにバカにされていることを伝えたら憤慨し
「次に何か言われたら、言い返せる言葉を教えてあげましょう」と言われた。
 
「バカ」とか「アホ」では、彼らのレベルに合わせてしまうことになるから、
彼らがギャフンと言うようなことを言い返すのよ。
 
ということで、
「あなたの頭の中には光が無いのね」とか
「まさかあなたたちが言っていることが理解できないと思ってる?」とか
長い文章を教えてくれて、私はそれを必死で覚えた。
 
それを使う日は、すぐに訪れた。
いつものように囲まれて、からかわれる。
そこで私は秘密兵器を口にした。
 
"T'as pas d'lumiere dans la tete!" (あんたの頭の中には光がない!)
 
みんなが目を丸くして仰天する姿を、今でも覚えている。
 
その瞬間から、私はみんなに認められ、クラスの人気者になった。
子供はその辺素直だから、からかわれ問題はそれであっという間に解決。
 
それからは友達もできて、フランス語も半年くらいでできるようになり、
楽しい小学校生活を送った。
 
でも、小3で日本人学校に転校することになる。
 

人種差別と出会った日

千葉県の葛飾幼稚園の年長さんだった私は、唐突にパリ17区の公立小学校St. Ferdinandに入学した。
フランスの新学期は9月で、着いたのが11月だったから、12月とか1月とかに入ったんだと思う。
 
もちろんフランス語なんてできるわけもないから、周りが何を言ってるのかわかるはずもない。
先生がつきっきりだ。時折ちょっとめんどくさそうだ。
小1から万年筆を使わせるから、指がインクだらけで真っ青だ。
書かされているものが文字なのか絵なのかもわからない。
 
そして、子供は大人よりも残酷だ。
アジア人を間近で見たことがなかった子供たちは、明らかに私をバカにする。
みんなで集まって私の前に立って、意地悪そうに笑いながら私を悪口を言う。
 
何を言われているかわからないけど、からかわれてるのはわかる。
「黄色い顔」「でか頭」とか言われてるのも、なぜかわかる。
 
なんでだろう。
なんでわたしはこんなところに居るんだろう。
わたしはみんなと違うのかな。
なんでわたしはみんなと違うんだろう。
なんでみんなと違うとバカにされるんだろう。
 
泣きながら家へ帰る日々が(少し)続いた。

クルエラおばさん

最初の5年間を過ごしたパリ17区のマンションは、築100年以上の建物だった。
入口の扉が重厚で、子供の私は全体重をかけて体当たりしないと開かなかった。
 
住み込みの管理人ドロガさんは、「タンタン」に出てくるスノーウィ(フランスではMilou ミルー)を飼っていた。名前もそのまんまミルーだった。
 
入口のドアを通ると小さな中庭があり、その奥には謎の塔が建っていた。
(ごみ捨て場になっていたような記憶があったりなかったり)
 
古い建物のらせん階段の真ん中に無理やり設置されたエレベーターは、冗談みたいに狭かった。
太ってる人とか入れなかったんじゃ・・・と思うくらい。
そして、木造だった。
そして、遅かった。
引っ越しとか、どうやったんだろう。
 
中庭に面する1階には、ヴィオラ演奏者のご主人と、学校の先生の奥さんが住んでいた。
すっと抜けて聴こえる音色が、きれいだった。
 
ちなみにフランスの1階は、日本では2階。
日本の1階は、RdC (Rez-de-chaussee)と呼ぶ。英語で言うGround floorです。
なので、ミュージシャン夫婦が住んでいたのは、RdC
 
私たちは5階(くどいけど、日本で言うと6階)に住んでいた。
お隣には、定年後のディメール夫妻が住んでいた。
ご主人は、元検事のダンディーな、ゴッドファーザーに出てきそうなおじいさん。
それこそエレベーターに入らないんじゃないかというサイズ感だった。
 
奥さんは、まさに「101匹わんちゃんに出てくるクルエラだった。
イメージ的にはビロードのガウンを着て、その下にはシルクのワンピース、
ショートでクリクリの赤毛に、緑・紫系のばっちりメイク。唇はショッキングピンク。
かなり濃密なムスク系の香水。日焼けしすぎて、胸元はしわっしわ。
想像つきました?フランスにはよくいるのよこういうおばさん。
 
私は最初かなりクルエラにおびえてたらしい。
子供にはいささかインパクトフルだし、無理もない。
本能的に「皮を剥がれて毛皮にされる」と思っていたんだろう。
 
ところがある日、何らかの理由で私が家から閉め出されてしまい、
(留守番中に私が家から出てドアが閉まってしまったとかで)
背に腹はかえられない、と腹をくくった私はクルエラの助けを求めた。
母がしばらくして帰宅するまで、彼女の家で過ごした。
具体的には覚えていないけど、とにかく満面の笑顔で、嬉しそうにお世話をしてくれた。
 
母が帰ってきたとき、クルエラは感動冷めやらぬ勢いでいきさつを説明したらしい。
「私に助けを求めてきたのよ、なんてかわいい娘なの!!!!!」
 
それ以来、ディメールおばさんと私は大の仲良しになった。