For No One

パリ、東京、ニューヨークでの思い出話や日々思うことをつらつらと書いていきます。

漢方薬局のおねえさん

前回の続き。

 

普通の状態だったらまず入ろうとしないであろう(←失礼)漢方薬局に、ベビーカーを押して入った私は本当に限界の状態だった。この状況から何としてでも抜け出したかった。

 

店員(店長?)のおねえさんもベビーカーに少しびっくりしていたけど(おそらくこのお店に入る人の平均年齢は70歳以上かと)、私が少し状況を説明したら椅子を勧めてくれて、詳しく話して欲しいと言われ、色々質問もされた。

 

「本当はたくさん寝るのが一番いいんですけど、今は無理ですよねぇ…。」

はい、不眠は薬のおかげで回避していますが、好きなだけ寝るのはちょっと難しいです…。

「体力はあるんですよね?貧血とかはないですか?」

はい、なぜか体力はあります。

「体は温かくても、手足の先が冷えたりしていませんか?」

はい、冷え性です。

「胃腸の具合も悪いですよね?消化不良というか。」

はい…なぜわかるのですか…。

「経血も鮮血じゃなくて、色が濃くてドロッとしたレバーみたいのが出ます?」

はい。って、それ普通じゃなかったんですか…?

「3か月前に、何かストレスがかかるようなことはありましたか?」

めちゃくちゃ思い当たることがあります。(ここでは割愛します)

「今月の生理の不調って、3か月前の自分の表れなんですよ」

ひえ~、そうなの~???

 

「なので今から飲む漢方の効き目が本当にわかるのは、3か月後になります。それまでに体調も少し改善するとは思いますが、3か月後の自分のためと思って飲み続けてみてください」

と言っておねえさんがくれたのは、当帰芍薬散(トウキシャクヤクサン)という漢方だった。

 

「内臓を温めて血の巡りを良くする漢方です。今は暖かい季節ですが、外から温めても内蔵までは届きません。今後インフルエンザなどの予防にもなりますよ。水分代謝も整えてくれるので、手足が冷えたりむくんだりするのも予防してくれます」

プロフェッショナルで詳しくて、べたべたし過ぎないけど丁寧に親身に接してくれて、心が弱っていた私には後光が見えるようなお方でした。

「訪問治療でよくお店が閉まっててすみません。飲んでみて合ってたらまたどうぞ」

 

入り口さえもう少しフレンドリーにすれば、入りやすくて色んな人が助かると思うんだけどなあ。

 

兎にも角にもその日から漢方生活が始まった。

本当に少しずつだけど体のバランスが整ってきて、肌も少しずつ落ち着き、情緒も安定して(書いてなかったけど一日100回くらいイライラしていた)、食欲もある程度戻ったのはおそらく2~3か月後だったと思う。

様子見で少しずつ買っていたので、2,3回目くらいに買い足しにお店へ行ったところ、

「ここで買っていただくのは構わないですが、もしかかりつけの内科があったらそこで処方してもらうと保険が効きますよ。もし長期的に飲み続けるつもりでしたらその方がいいと思います」

なんて商売っ気の無いお方。素敵すぎます。

というわけで翌月から、以前入眠剤を処方してくれた内科で漢方を処方してもらうようになった。

 

しかしその半年後くらいに、また同じような状態になってしまった。

 

続く。

ノイローゼと漢方のお話

年齢を感じるテーマですが、前回の投稿からの大きな節目の第一弾です。

 

息子が1歳半くらいのときだったかな。

とても必死で子育てをしていた。

両親はフランスだし、義理の親には頼りたくないし(そもそも遠いし)、夫の仕事も忙しかったので、今考えてみると大分ワンオペでやっていた。

ママ友も特に作りたくはなかったので、公園や児童館などもあまり行ってなかった。

とにかく私がいないと死んでしまう命を守ることに一所懸命で、自分のことは全部後回し。

しかもクソ真面目で、周りに話そうともしていなかったので、固定観念でかんじがらめになっていた。(主婦だから私が全部やらないと、食事は毎回作らないと、掃除機も毎日かけないと、離乳食は手作りできっちりグラム数も測らないと、などなど)

 

「私がちょっとここで我慢をすれば全て丸くおさまる」

「これはこうしなければいけない」

この二つの考えに完全に捕らわれていて、小さな我慢をコツコツと溜めていた。

 

で、そのうち眠れなくなった。

毎朝新聞配達のバイクの音がするまで寝られない。その音が恐怖になった。

 

そして、肌が壊れた。

こめかみから頬、鼻の周りにかけて無数の吹き出物ができ、一つ治るとまた一つでき、顔がボロボロになった。

 

あとは、食べたものが消化できなくなった。

ずっと胃の中の異物感が続いて、喉が詰まる感じもして、何を食べても美味しくなくなった。

 

生理の周期もおかしくなった。

予定日10日過ぎても来なかったり、かと思えば20日以内で来たり。

 

笑えなくなった。何も楽しくなくなった。夫も息子も愛しくなくなった。

 

今考えると絵に描いたような育児ノイローゼだったんだけど、自覚が全くなかったので周りに相談しようとも思っていなかった。

 

ある日、息子を連れて友だちと外で会う約束をしていたんだけど、時間が迫ってもどうしても準備する気力が湧かなかったので、初めてそこで他人に弱音を吐いた。

「ごめん、時間が近づいてるのにどうしても準備する気になれない。最近何もやる気が起きなくて、暗い私と一緒に居ても楽しくないと思うから、今日はキャンセルしてもいい?」

と連絡したら、その友だちは慌てて胃にやさしいランチを買って家まで来てくれた。

それで彼女と話して、やっと自分の状況が理解できてきた。

友だちはとても親身になって話を聞いてくれて、色々調べてくれてサポートしてくれて、あのとき彼女が居なかったらどうなっていたか想像したくもない。

 

とにかくこれは、ちょっと限りなく鬱に近いのではないだろうか。

このままではやばい。誰かに頼らないと。

 

とりあえず寝ないと。ということで、かかりつけの内科で状況を説明したらあっさり入眠剤を処方してくれた。

「寝られないときは無理をせず薬に頼るほうがいいときもあります。寝ないと治るものも治りませんから」と言われ、良い先生が居てありがたかった。

眠剤は、めちゃくちゃ効いた。

一晩ぐっすり寝られることが、こんなに気持ちのいいことだとは。ひとまずこれで精神状態は大分安定して、これからどうするか考える余裕ができた。

 

生理やら吹き出物やら消化不良は、不眠もあるけどホルモンバランスのせいでもあるだろうと思っていたら、友だちから「治療に直接役立つ情報じゃないけど」と送ってきたネット記事(ブログだったかな?)がとても興味深く。

うろ覚えだけど、アーユルヴェーダ的に女性の自己犠牲というのはとてもよろしくない。女性はまず自分が良い状態であることが大前提で、そこから初めて他人を幸せにすることができると。

自己犠牲して当たり前と思い込んでいたので、この記事は衝撃的だった。

その後さらに調べたら、女性の自己犠牲による不調は子宮に来ることが多いと。

 

とりあえずこの肌と周期を何とかしたいと調べたところ、西洋医学のホルモン治療か漢方治療の二択になりそうだった。ホルモン治療は即効性があり、漢方は時間が経たないと効果を感じにくい場合が多い。

もともとホルモンバランスが悪く、20歳の頃から15年間くらい低用量ピルを服用していたので、もうなるべく避けたかった。

 

というわけで、漢方を飲もう。

ネットで調べたけど、色々あり過ぎて個人差もあるし自分では決められない。

ということで、前から存在は知っていた多少怪しげで入りにくい雰囲気の漢方薬局へ行くことにした。藁をもつかむ思いだった。

 

長くなりそうなので続きます。

3年ぶり

コロナ禍でずっと合っていなかった友人に「また書いたら?あれ楽しみにしてたんだ」と言われ、そういえばずっと書いていなかったと思い戻ってきてみた。

ら、アカウント、まだあった!ありがたい。

前回はコロナが始まった頃だった。遠い昔のことみたい。

あのときは、日本人学校時代の人に身バレしそうになってちょっとビビっていたことを思い出した。

なんだかね、当時はちょっとイヤだったんですよ。日本人学校ではいじめられた思い出がメインなもので。

今はもう大丈夫です。逃げません(笑)

あと、ブログのタイトルで検索したら他の人のが出てきたから変えようかと思ってます。どうしよっかなー。

今回は復帰宣言ということで、また時々つらつらと書きます。

 

コロナ覚書

私は6歳のときから18年間フランスで育ち、両親はまだフランスのディジョンというブルゴーニュ地方の町に住んでいる。

母の妹はもっと前からニューヨーク在住で、アメリカ人と結婚して今はニュージャージーに住んでいる。

私も2007年から4年間、仕事でニューヨークに住んでいる。

 

このコロナウイルスの感染が始まったときは、欧米は蚊帳の外で、最初にトイレットペーパーや生理用品が品薄になったときは母親にフランスから送ろうか?と言われたほどだった。

2月には叔母夫婦が日本へ来て、慣れないマスクをして電車に乗ってうちへ遊びに来て、息子との初対面を喜んでいた。

それがものの2ヶ月で、アメリカの感染者は50万人を超え、フランスも12万人を超えている。両国とも完全封鎖、フランスでは外出する際国が発行する外出許可証を持っていないと2万円近い罰金を取られる。NYではこの3週間、5分おきに救急車のサイレンが鳴り響いている。

日本はというと、数字上では6300人とあるが検査の数が少ないだけだ。

昨日やっと非常事態宣言が東京を含む7都府県でおりたけど、町の商店街は居酒屋がテイクアウトを始めたくらいで、そーしゃるでぃすたんすってなんですか?英語わかんなーい、ってなもんで本当に泣きたくなるくらい、あるいはマスク無しでタピオカ飲んでる若者たちやきったねぇ咳をしまくっているオッサンたちの胸ぐらを掴んで殴り倒してやりたくなるほど全く危機感が無い。

 

欧米がこんなにやられる前は、日本人はもともとハグとかキスとかしないしマスクもするし手洗いうがいするし従順だし、そこまで広まるとは思っていなかった。

先に封鎖されたフランスに居る両親の話を聞いていて心の準備はできていたけど、日本でも感染拡大が冗談じゃないレベルになったときの日本人の反応は、正直意外だった。

初めて外出自粛が宣言された週末、みんな普通に公園でビールサーバーなんて持ち込んでどんちゃん騒ぎをしていた。

今でも、スーパーのレジではみんな息がかかるほどの距離で前後に並ぼうとする。

買い物かごを後ろに置いて距離を取ろうとすると、舌打ちしながらかごを蹴られたりする。

道を歩いていても、平気で服が擦れ合うくらいの距離ですれ違おうとする。

SNSを見ても、テレワークができない人たち(いや、わかるよできないのは。でもやろうとしてないだけの人がいるのもわかってるよ)が詳細を知りもしないのに政治家の揚げ足を取っていたり、この間まで「ライブやります!みんな気をつけて来てね!」って豪語してた人たちが、キャンセルをやむなくされた途端に「若者たち、もっと意識しよーよ!!この国どうなってんのよー!」と手のひらを返したように「よく見える」流れに乗ってるだけなのが見え見えな投稿をしている。デマに踊らされて買い溜めする典型的なひとたち。結局は自分で判断できず、国が言うことに右ならえな人たち。

で、このまま続けるとみんな嫌いになっちゃいそうなので(もう遅いかも)、しばらくFacebookはためになると思う記事をシェアするだけにして、そういう人と私が判断した人たちの投稿は隠して読まないことにした。

私も含め、人の知識なんて断片的にしか得られない。それで偉そうに国を批判したりするのは、私も当初そうだったからこそ未熟な行為だな、と思う。

とりあえずわかったことは、消化されていない怒りのままに書くことは人の心を動かすどころか閉ざしてしまうし、煩わしいだけだということ。

怒るのは、いいと思う。日々ムカつくことだらけだもんね。

でもその気持ちを発信するのは、一旦頭を冷やしてその怒りを客観的に見られるようになってからじゃないと、絶対に伝わらない。

伝わるとしたら、もともと同じ怒りを持っていて理性的に物事を捉えることができず、仲間を見つけて喜んでいるだけだと思う。

群れの中に居ないと不安。自分ではそう思っていなくても、やっぱり日本人のDNAの中には確実にある。それから逃れるには、身を引きちぎられたりアイデンティティーをかき乱されるようなような経験を何回もしていないと無理だと思うから、仕方ない。

 

なんかとりとめなくなってしまったけど、とにかく現時点でこの状況に関しては非常に悲観的に受け止めているし、おさまるまで数年続くと思う(ワクチンが開発されて世界中でインフルのワクチンくらい広まるまで続くと思う)し、本当に落ち着くまで国には経済がどうなったとしても、自粛を訴え続けて欲しい。

受験など

おっと、一年以上更新していなかったのか。びっくり。

息子も一歳半、楽になった部分(ほぼほぼ取り分けでよくなった食事の準備とか)と大変になった部分(私が洗っている間足元をウロチョロされるお風呂とか)があるけど、良く食べるし良く寝るし今のところ健康優良児に育っていてありがたい限り。

 

イライラしたり落ち込む日もあるけど、こうして二人でたくさん時間を過ごすのもあとわずか…って、もしかして来年から幼稚園?!

慌てて調べたら、入園する時点で3歳になっていなければなので、再来年でした。

あぁ、良かった。心底安心した。あと一年サバティカルイヤーを延ばしてもらった気分だ。

 

まだもう少し先の話だけど、日本で教育を受けていない私がちゃんと学校へ通う息子をサポートできるか心配だ。

きっとなんとかなるけど、私の精神的負担があまり重くならないことを祈る。

 

というわけで、フランスの進学のおはなし。

何回かに分けてアップすると思います。

 

*********

エリートコースへ進まない限り、フランスは高校・大学に入学するための試験は無い。

中学を卒業するとき(Brevet)と、高校を卒業するとき(Baccalauréat)に、国家試験がある。それに受からなければもちろん留年だ。

中学は義務教育なので、よほどのことじゃないと落ちないようにできている(と、思う)。

高校2年から、理系・経済系・文系の中から進路を選び、それに応じて授業と卒業試験の内容が変わる。

全体的に成績が良ければ、理系へ進むことを推奨している。

理系から文系への転向は簡単だが、逆はまず不可能だからだ。

高校1年までの成績はまあまあだったので、勧められるまま理系を選んだら、高3からその高校で一番頭の良い生徒が集まる特殊クラスみたいなのに入れられ、私の成績はあっという間にビリから2番目になった。

そのクラスの生徒はそもそもエリートコース(受験が必要な私立大学Grandes Ecoles)しか目指していなかったので、授業の内容も卒業試験対策ではなくその先のことを教えていた。

なので最後の1学期、私は高校へほとんど行かず、家で卒業試験の過去問をひたすら解き続けた。

先生方には留年するだろうと言われていたけど、ちゃんと受かったもんねざまーみろ!!

 

ということで、無事卒業資格を取得したら、当時(24, 5年前?こわい)はインターネットの先祖のようなMinitel(ミニテル。画面つきの電話のようなもの?)に第三志望まで行きたい大学と学部を登録する。

すると定員に達しない限り、第一志望の大学へ進めるという流れだ。

医学部でもこのシステムで入れるので、容易に想像できるように一旦入ってから進学するのが本当に大変なのだ。

私はパリ第十大学の国際経済・英語学部へ進んだが、留年せずに大学3年まで進学できる学生が半数に満たないとかだった気がする。

大学の4年間、人生で一番勉強した。何しろ年に4回受験しているようなものだったのだ。

図書館はいつでも満席、少しでも友達と話していると怒られる。

バイトなんてする時間があるはずもない。

教授の都合で休講になると、学生は振替の講義がいつか知るために掲示板へ殺到した。

※数年後に東京のW大学へ科目等履修生で1年間だけ通った際、同じく教授の都合でゼミが休講になったので振替の講義はいつかと思っていたら、教授がお詫びにと言ってランチをご馳走してくれたのにはびっくりした。学生もそれを当たり前のように受け入れているのに更にびっくり。高いお金払って大学院へ進んでいるのに、これで納得する学生って…。

なにがすごいって、そんな死ぬほど勉強させてもらえる大学の学費がゼロだということだ。図書館の使用料と、学生保険で年間数万円もかからない。

 

大学だけではなく、公立であれば中・高ももちろん無料。

私は学費がかからなかった親孝行だ、と自画自賛している。

 

このテーマではいろいろ書きたいことがあるので、次はいつになるかわからないけど続きます。息子が寝ている間にブログまで手をつけられる日は奇跡に近いので…。

アイデンティティー

2007年の夏、私は当時働いていた某アパレル企業の赴任でニューヨークへ行った。

それまでは出張で何度も行っていたけど、住むとなると全く別物で、日本支社からNY本部への「逆輸入」赴任だったので日本人の同僚も一人もおらず、最初の数ヶ月間は色々な意味で苦戦した。

そのエピソードはまた追って書こうと思っているけど、とりあえず着いた瞬間に強烈に感じたのが「ああ、私はやっぱりフランスが好きではなかったんだな」ということだった。

フランスでは、私がフランス語ができる前提で話しかけてくる人は少なかった。どれだけそこで育ってフランス人の心を持っていても、いつまでたってもフランスでは自分を「よそ者」だと思わずにはいられなかった。

だからNYでデリへ行って店員さんに当たり前のように英語で話しかけられただけで、「私はここに居ていいんだ」と感じて、それが嬉しくて、心が震えたのを忘れられない。NYという街はみんなのものであり、誰のものでもない。
でも、「認められた」人しか住めない、本当に不思議な街だった。

 

*****

 

先日、久しぶりに不特定多数のフランス人の集まりに呼ばれた。学生時代からの友達で、今はフランス大使館で働いているKちゃんのサプライズバースデーパーティーだった。

場所は彼女の上司の家で、彼は日本へ来る前にタイに居たこともあり、全体的にエキゾチックな内装だった。

おしゃれな界隈の広い広い家に、靴のまま入る。

 

生活感の無い、センスあふれるインテリア。
手元が見えるギリギリの間接照明。
ウィットの効いたジョーク(皮肉とも言う)を交えた、文化的な会話。
次から次へと注がれるシャンパン。
日本に住んで何年も経つのに、一言も日本語を話せない人たち。

 

う〜ん、ムリ!!!!!
やっぱり、ムリ!!!!!
今思い出して書いてるだけで心がズーンと重くなるくらい、ムリ!!!!!

 

私の結婚式以来会っていなかった、もう一人来ていた同級生に、

「きみが子供産んで仕事をスッパリ辞めちゃうとは思ってなかった。僕の妻(日本人)は産んですぐに働きたくて仕方ないって言ってたから」と言われた。

・・・でしょうね。当時の私からは想像つかなかったでしょうね。

 

*****

 

要は、私はNYから戻ってきてからの7年間でとっても「日本人的」になったのだ。
それを先週くらいに自覚してから、モヤモヤが消えてとてもすっきりした。
それまでは、友達の言動にただただ動揺したりイラついたりしていた。

子供用のお下がりを段ボール複数分くれたのはいいけど、穴があいてたりシミだらけだったり擦り切れていたりで半分以上使い物にならなかったこと。

自宅にランチに呼ばれて、前日に「何時頃行けばいい?」と連絡しても返信が無いこと。

息子が生後5ヶ月だった極寒の週末、お互いの子供を連れて新宿御苑へ行こうと誘われ、「先週長い散歩へ連れていったらしばらくお腹を壊してしまったのでちょっとやめておく」と返信したらその後返信が無かったこと。

とにかく返信が無い。フォローが無い。
だからこっちは気を悪くしたのかな?と、ストレスが溜まる一方。

 

この間アメリカに住んでいるもう一人の学生時代の友達から
「今年の年末に3人の家族でハワイで集まらない?」と、Kちゃんと私宛てにメッセージが来た。
内心冗談じゃない、どこのセレブですか、と思いつつ、やんわりと
「フランスへ行くかもしれないから経済的にも厳しいし、私たちはやめておくね」と返信したところ、案の定そこで会話は終わった。

 

その翌日、Kちゃんから
「こういう条件で半年後くらいに新しくポジションを作るんだけど、興味ある?」
というメールが来た。
それまでは私も仕事に関して中途半端な態度を取っていたので、彼女は常日頃から「あなたができる仕事はいくらでもあるから、いつでも言って!」と言ってくれていた。

 

でも、ムリ。
心の平穏を保つためにも、私はフランス人の中で仕事はしたくない。
とはさすがに言えないので、「経済的に難しいって言ったから仕事紹介してくれてるの?」と冗談を飛ばしたあと、「いろいろ考えたところしばらく仕事をするつもりは無いので、今後仕事の紹介は必要無い」ということだけ伝えた。

「一緒に過ごすために有休を取ろうと思っているから、都合の良い日を教えて」とも言われていたので、今月のNGな日も合わせて送った。

もちろん、それ以来返信は無い。その数日後が、冒頭のバースデーパーティーだった。

 

*****

 

自分が過ごした18年間を否定はしたくないから、どこかで心の折り合いがつかなくてずっとモヤモヤしていたんだけど、思い切って否定してみたらものすごくすっきりした。

性格なのか環境なのか、私はフランス語のときと日本語のときで人格が違うのは前から自覚はしていた。

フランス語のときの自分は、10代のコンプレックスや色々な経験が手伝って、あまりしっくりこないし、好きになれなかった。それは今でも変わらない。

昔から日本語で話す自分が最もブレが無い、本当の自分だった。

日本へ戻ってきて、夫と出会って、子供ができて、「フランス語のときの自分」が必要無くなって、今の自分はとても穏やかになったと思う。

Kちゃんが日本へ戻ってきて、接するたびにどこかモヤっとしていたのは、彼女が変わったからではなく、私のアイデンティティーがまたかき乱され始めたせいだということが、一年経ってやっとわかった。

否定はしても18年間フランスで過ごしたことは事実だし、その間にできた友人はとても大切なので、もちろんそのせいで絶交するつもりはない。でも、今なりの距離感を取り直す必要があるので、私も頑なになりすぎず、少しずつ調整していけたらいいなと思う。

 

*****

 

Kちゃんにパーティーで撮った写真を送ったら、「来てくれてありがとう、楽しい時間を過ごせたならいけど」と返信が来た。

 

それには、返信していない。

入院生活

ああ、久々の日差し。テンション上がります。

*****

出産した病院は無痛分娩で有名なところで、産後の母親の体力回復を優先するべく入院中は母子別室だった。授乳は3時間おきで、希望者だけ夜の12時から朝の5時の間の授乳ができ、希望しない人は少なくともその5時間はゆっくり寝られる制度だった。

個室だと母子同室が可能だけど、一泊2万円とかするのでばかばかしいと思い、私は4人の大部屋で入院していた。大きなパーテーションとカーテンがあるし、授乳やら色んな説明会で病室でゆっくりする時間も無かったので、別に気にならなかった。

それにしてもシュールだったのは授乳だ。って、日本の大きな産科病棟は大体そうなんだと思うけど。

3時間に一回、新生児室へ行って授乳をする。時間が決まっているのでお母さんたちは同時に授乳することになる。

その病院は計画出産がメインで、土日は計画出産は対応していないので、「新生児ラッシュ」の曜日が決まっている(と、後で考えて気がついた)。私が入院していた期間は多いときで20人弱の新生児が居た。

そのお母さんたちがそこまで大きくない(15畳くらい?の)授乳室で一斉に並んで授乳をするのだ。普通のことかもしれないけど、私はかなりショックを受けた。

すっぴんで、ダッサい入院着を身につけたお母さんたちがフラフラと授乳室へ入り、新生児の体重を計り、虚ろな目でおっぱいを丸出しにして乳房を揉み、まだ上手に飲めない赤ちゃんに授乳する。お互いの肘が触れ合うほど近い距離で、だ。

保育士さんが何人か歩き回って、おっぱいがうまく出ないと揉みほぐされ、赤ちゃんがうまく飲めていないと羽交い締めにして乳房をくわえさせる。もちろん赤ちゃんはギャン泣きだけど、構わず羽交い締めにして乳房を口に入れようとする。

 

な、なんだこりゃ。

 

奇跡的に生まれた自分の子供との、記念すべき最初のふれあいがこれって・・・。

辛すぎる。

お見舞いにきてくれたフランス人の友人もドン引きしていた。「プライバシーっていう概念は無いの?授乳はこんなに親密な行為なのに」って、ごもっともだ。もしかしたら日本は温泉とかで他人の裸を見る文化があるからこんなおかしな授乳室になってるのかな、とも思ったり。

 

保育士よりも怖かったのが、週に数回来る「母乳外来」の人たちだ。

これはあくまでも私の持論だけど、彼女たちは何か問題を見つけては桶谷式だかナントカ式だかの母乳外来へ行く必要がある、と脅してくる。

 

息子は私に似て口が小さく、私の乳房が大きすぎて口にうまく入らないので入院中はほとんど母乳を飲めていなかった。母乳は溢れんばかりに出ていたので、絞り出して哺乳瓶に入れたものを飲ませていた。

息子の口がもう少し大きくなれば解決する問題だし、それまでは友人にもらった搾乳機を使えばいいや、と思っていた。いずれにせよ粉ミルクと混合で育てようと思っていたので、母乳が出ていて息子が哺乳瓶できちんと飲めている以上何も心配していなかった。

ところが、退院の日に母乳外来につかまってしまった。

息子が全然おっぱいを飲めていないことに気づかれてしまい、2人で泣きながら嫌がる息子を無理矢理押さえつけて大きすぎる乳房を口に入れようとする。私も疲れていて怒る気力も無かったが、「全然飲めていないから、できたら一週間以内に来た方がいい」と言われ、内心「死んでも行くもんか、それよりも早く解放してくれ」と思っていた。気が弱いお母さんだったら言われた通り行ってたんだろうな。

 

結局予約していたタクシーが帰ってしまうくらい拘束され、退院したときは私も息子もグッタリで、迎えにきていた夫と母にも心配をかけただけだった。

 

案の定一ヶ月もしたら息子は上手におっぱいが飲めるようになり、粉ミルクと混合で育てて順調に大きくなっている。

 

入院生活を振り返ってみると、正直牢屋に入っていたような気分にしかならない。入院着も囚人服に思えてくる。それが嫌だからみんな個人でやっている産院で産むのか、とやっと理解した。そういうところは大体普通分娩しかやっていないから無理だけど。

なにはともあれ、無事出所できてよかったです。